COLUMN

「5月は父の命日です。私が30才の時に66才で肝臓がんで他界しました。」

毎年5月は昔書いた自分のブログを見直します。毎年感じ方が違います。今年はコロナショックで考えさせられるものがあります。
 
「5月は父の命日です。私が30才の時に66才で肝臓がんで他界しました。」
 
「父親に比べたら私はまだまだ未熟だなぁと思います。 」
 
「私は父が亡くなるまで偉大さに気づいてませんでした。」
 
※閲覧注意:長文で昭和な話しです。。。
 
私の父は物心ついた頃は漁業関係の仕事をしていました。
家を午前3時に家を出て夕方5時半まで働いていました。
休日は毎週日曜日の1回だけと正月休みが3日くらい??の仕事量を20年以上続けて私たち家族5人を養ってきました。
戦後の方たちはすごい忍耐力です。
 
父は私たちが生まれる前は漁師だったそうです。
父が15才(当時学校に行っていたら中学2年生) から船に乗って漁師で次男だった父は家族8人くらいを養っていたそうです。
*早い時期に父の父(おじいちゃん)は他界していたそうです。
 
昭和14年に高知県室戸市 に産まれて(ちなみに昭和20年に終戦 )父の青春時代は大半が大海原の船の上。
・左の腕にサメに噛まれた大きなキズがあり
・船が遭難して海に何日間か浮いていたこともあり
・青森から高知まで歩いて帰った こともあり
・わたしが中学3年まで腕相撲で勝てなかった。くらい力持ちでした。*私が弱いわけではありません。
 
小さい頃に聞いた遠洋漁業で回ったオーストラリア沖、インド洋、フィリピンや南アフリカ(ケープタウン)などの世界の危険な体験談は今でも覚えています。
*遠洋漁業とは6ヶ月は日本に帰国できず、オーストラ リア沖でマグロ延縄業法というもので取ることが主流でした。マグロが取れる時は3日間寝ないで漁を続けることもあるとても厳しい労働環境だそうです。
 
話しは変わりますが私は静岡県出身です。
 
なぜ?父親は高知県なのに、静岡県で育ったかといいますと
 
父の船が獲った魚を下ろすために立ち寄った漁港(私の生まれた街)で飲食店を営んでいた母親と恋に落ちて
 
私たちが産まれました。← 演歌の世界みたい。。。
 
私の父の結婚後の人生は親族や友達いない、知らない土地で家族を養っていくのはとても苦労したと思います。
 
仕事しかしていなかった父親なので定年後は生きがいを失い、それまで酷使していた身体が病んでいきました。肝臓がんの病気が発覚してから2週間くらいで他界しました。
 
当時の私は東京で美容師をしていましたので入院してからは東京と地元を行ったり来たりで、バタバタだったのを覚えています。
 
シロウトの私でも一目見ただけで絶対死ぬってわかるようになって
「父さんの人生っなんだったの?」って病室で聞いたら
「ただただ働いただけだよ。」
黄疸がでた目で言っていました 。
 
*肝臓がんなので末期には黄疸が出ます。黄疸が出ると白目までホント−に真黄色になります。←怖いです。
 
昭和の父の不器用さは私が一緒に過ごした18年間で弱音を1度も聞いたことがありません。
自分たちへの愛情を言葉に出してくれたことも1度もありません。
冷たいわけではなく情があるけど、とんでもなく不器用な人であったと思います。
 
死ぬほど働いて、働いて生きることに必死だった父が特別では無く、その時代は父のような人がゴロゴロいたと思います。
 
「そんな戦後の父親たちが死ぬほど働いて今の豊かな日本を築いてきた 。」
 
次は自分たち
 
という感情が湧いてきます。
 
40代からもずーっと死ぬほど働こう!
死ぬほど働くことも楽しいって思えてき ました。
 
そして
それを
誰にも強要はしません。
自分自身の課題です。
 
現代の日本を築いてきた人への感謝もあります。
でも、使命感というよりも
あの父の子なんだから「自分を越えたい」という想いも素直な気持ちです。
 
全世界がコロナショックで働き方や価値観が変わっても原理原則は同じ
「効率いい働き方より、働く時間の量のほうが勝る 」
と直感でそう思います。
 
仕事の中に人生があり、人生の中に仕事がある
 
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